名前 評判・実績・評価など

岩谷直治

(いわたに・なおじ)

岩谷直治

【就任期間】
1930年5月~
1985年12月

【生まれ】
1903年、島根県

【死去】
2005年7月。享年102歳。老衰。

日本全国にプロパンガスを普及

50歳にしてプロパンガス事業を始め、62歳で水素事業を始めた。

戦後、日本全国にプロパンガスを普及させた。それまで家庭の燃料だった木炭や薪にかわる燃料となった。かまどで炊事をする不便さから主婦を解放する「台所革命」を起こした。液体水素をいち早く事業化した。「プロパン王」。

誕生・出生

1903年(明治36年)、島根県大田市(おおだし、当時:長久村)出身に生まれた。

農学校

県立大田農学校に通った。ダーウィンの「進化論」を学び、「世の中に必要なものは栄える」という教訓を得た。

運送会社に就職

1918年(大正7年)、15歳で農学校を卒業し、神戸市の運送会社に就職した。

ガスとの出会い

軍や造船会社に酸素を運ぶ仕事を担当した。これが、酸素ガスとの出会いだった。

運送の現場で米騒動を目の当たりにした。「もうけすぎた企業はつぶれる」。焼き打ちに遭う会社を何社も見て、社会が何を求めているのか見極める皮膚感覚を研ぎ澄ました。

創業・独立

1930年5月(昭和5年)、前身の「岩谷直治商店」(現・岩谷産業)を創業した。27歳だった。

創業場所は大阪港区。2階建ての民家に構えた。妻と2人だけの船出となった。

酸素などのガスを販売する店だった。使用済みボンベの回収も行った。

大阪湾岸には鉄工所やメッキ工場が密集していた。商売にはうってつけの場所だった。

薄利多売で成長

薄利多売で得意先を増やしていった。少しでも安い仕入れ先を求めて、歩き回った。

経費を抑えるため、ガスボンベの運搬には荷馬車を使わず、リヤカーを引いて大阪と尼崎の間を毎日、往復したという。

顧客重視

顧客重視の方針を徹底し、取引先の信頼も得た。

ある時、溶接用ガスの原料価格の高騰を予測し、得意先に「必ず値上がりするので、今のうちに買った方がいい」と勧めた。

他の業者は、この時、利益を増やすため、売り惜しみしたという。

法人化

1945年(昭和20年)、株式会社に改組。社名を岩谷産業とした。社長に就任した。

戦後

戦後は、家庭用燃料としてのLPガスに、いち早く目を向けた。

プロパンガス参入

プロパンガスで「台所革命」

岩谷がプロパンガスと出合ったのは、1952年のことだ。当時、工業用ガスなどを取り扱っていた。

イタリアに液化石油ガス(LPG)をボンベに詰めた「ガスの缶詰」があると知人から聞いた。さっそく現地を訪問。

薪(まき)や木炭を燃やすよりも便利で、煙やすすも出ない。

帰国し、翌1953年(昭和28年)、石油会社からプロパンガスを購入。小型のボンベに詰め替え、販売を開始した。

多くの家庭が炊事用にまきを使う中、プロパンガスを家庭用燃料として発売するのは初めてだった。「マルヰプロパン」の名前で発売した。

1953年の発売当初は知名度が低かった。プロパンを「クロ(黒)パン」と聞き間違えられるほどだった。

まずは飲食店へ

「飲食店に広めれば、家庭にも浸透する」と、神戸の有馬温泉など旅館への売り込みに奔走。大量の食事を用意する温泉旅館に売り込みを図った。

社員がコンロにマッチで火をつけ、火力の強さや手軽さをアピールした。

主婦の家事労働を大きく軽減

狙いが当たった。プロパンガスの便利さが浸透すると、売り上げは急増した。発売から約1年で、月間販売量が当初目標の70トンを超えた。

煙やススが出ない

プロパンガスは全国津々浦々へ浸透した。その手軽さと煙やススが出ないクリーンさが人気の理由だった。主婦の家事労働を大きく軽減する「台所革命」の先駆けとなった。

「松下幸之助さんは電気で女性を解放した。私はガスで煙やススから女性を解放する」が口ぐせだった。

販売網

全国に強力なプロパン販売店網(代理店)を築いた。

東京五輪

1964年の東京オリンピックでは、開会式の聖火台の燃料に、岩谷産業のプロパンガスが採用された。

五輪の聖火台にプロパンガスが初めて使われたのは、4年前のローマ大会だった。岩谷は「採算を度外視してでも、採用を働きかけろ」と指示し、東京大会の3年以上も前から、組織委員会と交渉していた。

カセットコンロ

また、カセットコンロの普及にも力を入れた。1969年、「ボンベからホースをなくそう」と、卓上コンロ「カセットフー」を発売した。LPガスを缶詰にした、LPガス商品としては画期的なものだった。

卓上コンロの鍋でのだんらん

火力が強く簡便である点が受けて、日常的に使われるようになった。卓上コンロの鍋でのだんらんが、全国に定着した。

旧ソ連のブタンガス容器がヒント

岩谷産業が独自に開発した。旧ソ連(現ロシア)がブタンガスをプラスチック容器に詰める技術を発明したとの情報をヒントに「ならばLPガスも携帯容器に詰めることが可能じゃないか」と考えたという。

防災用品

防災用品として、一家に一台備える習慣が広がった。岩谷産業が災害地の救援に届けた累計は天文学的な数字にのぼるという。

水素エネルギー

第1次石油危機(オイルショック)を経た1975年、液体水素の事業化に乗り出した。水素は燃えると水になり、環境にやさしい。化石燃料の代替として着目した。

1978年に日本初の液体水素の工場を建設する。社内の慎重な意見を説き伏せた。素晴らしい先見性と行動力だ。

国産ロケットに採用

1986年、岩谷産業製の液体水素燃料を積んだ国産ロケットが打ち上げられた。宇宙開発事業団の「H-1ロケット」の燃料に採用されたのだ。

三菱重工業と共同開発した液体水素だった。液体水素の実用化の第一歩だった。

岩谷直治は「夢が実現して胸がいっぱいです」と涙ぐんだ。

岩谷は「ロケット、飛行機、自動車の順に液体水素燃料が導入される」と予測していたという。

労使紛争

1973年、労働組合が発足。激しい労使紛争が起きた。

会長に

1985年12月に社長を退任し、代表権のある会長に就任した。

会長に退いた後は経営に口出ししなかったが、東京に自社ビルが建った時は「これからまだ大きくなる時期に、器の大きさを決めてどうするんや。そんな金は事業に使え」とぼやいた。

82歳のとき、専務だった三男が急逝した。残された孫を案じ「俺(おれ)が100歳まで生きてやらなあかん」と周囲に漏らした。

1998年に取締役名誉会長に退いたが。「私の辞書には『引退』という言葉はない」の言葉通り、生涯現役を貫き通した。

健康に人一倍気を使い、亡くなる4、5年前までは欠かさず役員会に出席していた。

死去

2005年7月19日、死去。享年102歳。老衰だった。長寿をまっとうした。大阪府八尾市の病院で亡くなった。亡くなったときは取締役名誉会長だった。

喪主は息子(二男)で相談役の岩谷徹郎(てつろう)氏が務めた。

慈善事業

「社会のためになること」であれば、私財も含めて惜しみなく大金を投じてきた。

1973年に自己資金30億円で「岩谷直治記念財団」を設立した。

資源・エネルギー分野などの研究者を支援し、アジアからの留学生への援助も続けた。

「土のにおいがする経営者」

島根県の農村で生まれ育ち、「土のにおいがする経営者」と呼ばれた。

生前、「私の人生目標は会社を大きくすることだと、だれはばかることなく公言できる」と語っていた。

妻・ソチさん

妻・ソチさんは1970年2月、死去した。死因は心筋梗塞。享年65歳。結婚してから42年だった。

幸(さち)さんと再婚

1971年3月、再婚した。相手は、前田幸(さち)。当時42歳だった。25歳年下だった。奈良県出身。

息子・岩谷徹郎とは

ニチガス創業者

岩谷直治氏には息子が3人いた。このうち二男の岩谷徹郎(てつろう)氏は、社長にはならなかったが、会長まで務めた。父の指示もあり、20代で「ニチガス(日本瓦斯)」を創業した。ガス業界に与えた影響は多大である。

東京大学を卒業し、新卒で岩谷産業入社。

1933年生まれ。1955年に東京大学を卒業。新卒で父親の経営する岩谷産業に入社。

「小売り直販会社をつくれ」

入社すると、父から「自分一人でプロパンガスの小売り直販の会社を作れ」と命じされた。資金集め、会社の登記から、ボンベを運ぶリヤカー押しまで全部やった。こうして、1955年7月、「ニチガス(日本瓦斯)」が創業した。

ニチガスは「簡易ガス」事業を手掛けて、急成長した。1973年、上場した。

米国を9か月視察

この間の1958年、アメリカのLPガス事業を、9か月間にわたって視察する。最新のガスビジネス法を、日本にも取り入れた。

徹郎氏の略歴

1962年取締役、1963年専務、1970年代表取締役副社長。

1981年、労働組合が、徹郎氏の副社長昇格に反対する闘争を行う。

1998年取締役副会長に就任。結局、徹郎氏は社長にならず。世襲制にはならなかった。

1999年6月、66歳で代表権を持つ会長に就任。2代目社長の斎藤興二会長(当時68歳)は相談役に退いた。5月20日の取締役会で、斎藤会長が健康上の問題を理由に辞任を申し出た。

2004年に相談役に退いたた。

徹郎氏の死去

2010年10月30日、死去。死因は肺炎。入院先の東京都済生会中央病院で亡くなった。享年77歳。財団活動を通じた社会貢献にも尽力。この功績から、2001年11月に藍綬褒章を受章した。葬儀の喪主は妻の紀子(のりこ)さんが務めた。

他の2人の息子

岩谷直治氏には、息子が計3人いた。

長男

長男は謙三氏である。乳児の時に他界した。

三男・學

三男は學(まなぶ)氏。慶応大学を卒業後、岩谷産業に入社した。

1985年、専務に昇格した。しかし、その半年後の1985年8月、急死した。死因は心不全。淡路島付近でヨットを楽しんだ後だった。


齋藤興二

(さいとう・こうじ)

齋藤興二

【就任期間】
1985年12月~
1998年6月

【生まれ】
1931年4月

創業者の後を継ぎ、12年間社長を務めた。

入社年次

1957年

社長就任時の年齢

54歳

社長就任前の役職

専務

前任者の処遇

岩谷直治社長は会長に

就任理由

創業者が82歳の高齢になったのを機会に若返りを図ることにした。

略歴

開発から営業、管理部門とオールラウンドに歩いた。社長室次長、開発部長など要職を歴任。

1973年(昭和48年)に取締役、1979年(昭和54年)常務人事部長。1985年から専務。

出身校

横浜国立大学(経済学部)

出身地

神奈川県

実績

全国にガス充てん所

全国に18のホームエネルギー会社と、その下に約150の充填(じゅうてん)所を設け、「マルヰガス」というブランドを、1993年秋から全国展開し始めた。

地域の販売店へのガス供給拠点

LPガス事業は配送が伴う物流事業という側面が強い。コストを下げサービスの向上をはかるには、零細なガス販売店(燃料店)の共同事業化が不可欠だ。各地域の店への「ガス供給センター」の役割を当社が担おうというものであった。

「大同ほくさん」と提携

1994年3月、ライバル関係にあった「大同ほくさん(現:エア・ウォーター)」との多角的な業務提携を結び、業界を驚かせた。

LPガスや灯油などの燃料、工業用ガス、食品、住宅、物流の五分野で、共同事業化によるコストダウンをはかるのが狙いだった。

「ガスメジャー」と呼ばれる欧米の産業用ガス会社と対抗できるコスト競争力を備えたいという意図もあった。

アジア進出

ガスの顧客である製造業の海外移転が進んだのを受けて、岩谷も海外に出た。

1995年時点で東アジアや東南アジアに合弁企業22社が稼働。うち10社が中国。さらに6社が準備中となった。

中国に関しては社長自身は「短期慎重、長期楽観論者」と自らを位置づけた。

東京に自社ビル

東京に自社ビルを建設した。西新橋三丁目、日比谷通りに面した角地。シャープさと格調の高さを合わせ持つ建物。設計・監理をレーモンド田邊設計事務所、施工を大林・鹿島・錢高JVが担当した。

2024年4月に土地と建物の売却が決まったが、固定資産売却益として112億円を計上することができた。

座右の銘

仏典の「和顔愛語」

趣味

趣味は歴史研究。日本古代史の追跡から、古地図収集や遺跡巡りまで精力的に活動。

毎早朝、自宅周辺の散歩を欠かさず、国内外の出張時にも必ず運動靴を持参して歩く活動派だった。

他の要職

全国エルピーガス卸売協会会長


楊井立夫

(やぎい・たつお)

楊井立夫

【就任期間】
1998年6月~
2000年6月

【生まれ】
1934年1月

【死去】
2019年4月1日、死去。享年85歳。死因は直腸がん。

副社長から昇格して1期務めた後、牧野氏にバトンタッチ

入社年次

1955年

入社理由

「現場のモノづくり」が子供のころからの夢だった。

しかし、商社であると同時にカーバイトからアセチレンガスという基幹産業の基礎素材を作る岩谷に心を動かされた。

入社当時は、七輪、かまどが普通だった台所にガス化の革命が起き始めていた。岩谷直治社長(現取締役名誉会長)は、新卒の大半をLPガス事業に投入した。 このため、職業人生はプロパンから始まった。

社長就任時の年齢

64歳

社長就任前の役職

副社長

前任者の処遇

斎藤興二社長(当時67歳)は代表権のある会長に。創業者の岩谷直治会長(当時95歳)は取締役名誉会長に。創業者・岩谷氏の長男である岩谷徹郎取締役(当時65歳)は副会長に就任する。

人事の背景

創業者の岩谷会長から95歳になった1998年3月7日に会長辞任の申し出があった。

斎藤興二社長は楊井副社長を後継者に選んだ理由を、「21世紀は科学の時代だ。技術系の出身であり、そうした素養のある人物が望ましい」と説明した。

略歴

入社以来、工業燃料やLPG(液化石油ガス)部門などを経験し、大阪府堺市や茨城県神栖町のLPG基地建設にも携わった。

プロパンの使い方を旅館などにPR

初めはプロパンの使い方を旅館などにPR、宣伝カーも繰り出すなど、全国津々浦々を回った。

LPガス専用コンロの開発

楽ではないが、その過程でLPガス専用コンロの開発にも手を染め、モノづくりに近いところで仕事をしたことで、充実感を得た。

燃焼機器作り

業務用でも、顧客からの提案や要望を受けての燃焼機器作りに取り組むなど、共同開発も含め「機械の音」「油の匂い」に接しながら生きてきた。

1979年工業燃料部長兼LPガス石油部長、1987年取締役、1985年常務、1990年専務、1995年4月から副社長。1997年統合戦略営業本部長を兼務。

就任前の評価・評判

「きわめてまじめで、仕事がステディ。営業全般の経験があり、次の社長は彼をおいて他にない」と齋藤社長に言わしめるほど、周囲の評判は良かった。

出身校

大阪府立浪速大(現大阪府立大)工業短期大学部卒

出身地

大阪府

創業者の思い出

「やれることはすべてやったのか」

仕事につまずき、創業者である岩谷直治会長に報告すると、いつもこう指摘された。

「万策を尽くし、簡単にはあきらめない」-。

岩谷会長のこの言葉が、仕事のバックボーンになった。

性格

絵にかいたようなきちょうめんさ。生活だけでなく仕事でも同じだ。

毎朝5時55分ごろに目覚める。 「テレビニュースのタイトルを見て、6時7、8分に布団から出る。新聞を読みながら朝食をとり、7時に自宅を出る」 という。

ポケットにしのばせる手帳をはじめ、いつも計三冊の手帳をもち、取引先との懇談で気になった一言や、読書の感想などを細かな文字 で書き留める。 「メモ魔」だが、 「手帳のメモを別の大学ノートに書き写す斎藤興二会長には及びません」 と笑っていた。

家族

妻と2女。
長女は結婚。孫2人

健康法

早足で歩く、睡眠をとる努力

年齢問題

社長の齋藤興二から指名を受け、まず思ったのは「まさか……」だった。

齋藤と年齢も近いことだし、「齋藤の描く絵を実行することがわが使命」と考え、全力で走ってきたからだ。

ただこれまで仕事を通じて、何にでも興味を持ち前向きに楽しんできたことも事実だ。気持ちは十分若い。副社長時代も齋藤の仕事を分担し、意見・提案も積極的に行ってきた。

趣味

休日には日曜大工に精を出す。 暇なときはよくホームセンターなどをぶらつき、売れ筋情報を探る。

読書、ゴルフ。

歴史物や科学・天文雑誌を読み流す。

ゴルフは下手の横好きでハンディ24。

酒やカラオケは「まったくいけない」


牧野明次

(まきの・あきじ)

牧野明次

【就任期間】
2000年6月~
2012年6月

【生まれ】
1941年、東大阪市

「中興の祖」ともいえる大物経営者。会長に就任した後もCEOとして君臨。

社長就任時の年齢

58歳

社長就任前の役職

副社長

前任者の処遇

楊井社長は相談役に退き、6月の株主総会で取締役を退任。

人事の背景

業績が悪化しており、経営を抜本的に改革する新しいリーダーが求められていた。 楊井立夫社長から「次を頼む」と告げられたのは2000年3月14日昼。 「頭の中がまっ白になった」が、「気ぜわしい性質」から夕方には首を縦に。

生い立ち

父親は医者。小学1年で家庭教師がついた。医者を目指していた。

医学部受験で失敗

大学の医学部の受験で落ちた。2浪したが、それでも不合格。大阪経済大学に入った。

入社年次

1965年

入社理由

就職先は商社を希望していた。 叔父から「これから伸びる会社」として薦められた。

略歴

新人時代

大阪東営業所(大阪市城東区)に配属された。

15人ぐらいの小所帯だった。

配属初日にいきなり工業ガスの受発注の事務を任された。

ボンベを転がす肉体労働

事務と言っても、伝票処理だけではない。

ガスボンベ置き場で泥まみれになってボンベを転がす。

トラックに運んだり、仕事が終わった後に一升瓶を持っていき、年配の運転手と一緒に酒を飲んだりもした。

同期44人で唯一

同期44人の中でこんな仕事についたのは自分一人だったという。 辞めたいと思ったこともあった。

営業になり、人脈を広げる

入社1年半後、ようやく希望していた営業担当になれた。以来、主に営業畑を歩む。 上司から「偉い人に会え」と言われ、遠慮せずに役員にも会いに行った。

営業では「知人」から「友人」に変えていくことが成功のカギとなる。

旅行先から手紙を出すなど自分なりの工夫を凝らし、お客さんの家に上げてもらえるまでになった。

そうした「友人」から芋づる式に人脈を広げた。

政治家への転身を誘われる

36歳のとき、昔から近所でお世話になっていた大物政治家の塩川正十郎・衆院議員(自民党)から「大阪府議会議員に出てくれ」と依頼される。

当時、会社は労使紛争が激しく、混乱していた。このため、7割くらいやる気になっていたが、妻に反対されて断念した。

労組委員長として「協調路線」

「会社に骨をうずめるなら、労使紛争を何とかせにゃいかん」と、労働組合の委員長を引き受けた。

対立路線をやめ、「労使協調路線」へと転換すべく、粉骨砕身した。 2年間、委員長を務めた。

名古屋支店の立て直し

不振の名古屋支店長に就任。 ネアカな性格で雰囲気を盛り上げ、支店の営業成績を改善した。

米国で水素ノウハウ

1989年にアメリカの化学会社に出向。 水素開発のノウハウを身に着けた。

子会社の「岩谷瓦斯」へ転籍

1988年取締役、1990年常務、1994年専務。 帰国後、社内で液化天然ガス工場の建設を提案するが、通らず。 子会社の「岩谷瓦斯」へ転籍となった。 岩谷瓦斯での再建を成功させ、創業者・岩谷直治氏(当時会長)から実力を認められる。1998年6月、副社長として岩谷産業に復帰した。

出身校

大阪経済大学(経済学部)

学生時代

1961年(昭和36年)から1965年3月まで4年間、体育会ゴルフ部。専攻は経済学部だがゴルフ部卒業といえるほどだった。4年の時に主将。

出身地

大阪府東大阪市

性格

自分では「気ぜわしいたち」といい、周囲も 「機関車のように自分と部下を引っ張ってきた」 (楊井社長)と認める行動派だ。 「仕事は楽しく、にぎやかに」がモットー。

実績

66の関連会社を清算

慢性的な赤字だった創業者の肝いりの岩谷住宅建設をつぶした。 66の関連会社を清算した。

海外スリム化

海外の拠点も整理し、不要不急の事務所を3カ所閉めた。 米国のアトランタの駐在事務所も閉鎖する予定で、最終的に31ある拠点を27拠点にした。

改革の推進

「各部局の人材を集めて『改革推進プロジェクト』を組織し、社内のさまざまな課題の洗い出しを行った。 営業力を強化するため本社機能を小さくし、支店、事業所に人材を重点配置した。

液化水素工場

大阪・堺市に大型の液化水素プラントを建設した。

天然ガス

関西電力や中部電力との合弁で、相次いでLNG(液化天然ガス)販売会社を設立。都市ガスへ参入した。

水素エンジン

2002年2月、日本初の本格的な水素供給ステーションを大阪ガスの酉島技術センター内に完成。燃料電池車の公道走行実験をサポートした。 水素貯蔵量は29万キロリットルで、乗用車約10台分の水素を蓄えることができるようになった。 ガソリンスタンドのように気軽にLPGを供給できるスタンド整備を目指した。

平成入社組の意識改革

経営環境が変化しているのに社員の意識が変わっていないのが気になる。平成入社の社員は物事を具体的に提案できるが、覇気に乏しい。昭和入社の社員には気合がある。違う年代でタッグを組ませることで両者の長所を引き出し、意識改革を進めた。

経営危機から脱却

バブルの後遺症で1998年3月期~02年3月期の5年間に3度最終赤字に転落する経営危機に陥ったが、業績を回復させた。

2011年6月、産業ガスで価格カルテルを結んでいたとして、公正取引委員会から排除措置命令を受けた。

座右の銘

少年時代に父親に教わり、自宅の額に入れている「右受左授(うじゅさじゅ)」。 「人から受けたものは、大きくして必ず次ぎに授けよ」を意味する。

趣味

司馬遼太郎を読み、野球は「婦唱夫随」の巨人ファン。 ゴルフはハンディー13。

趣味は旅行とゴルフ。 休日には、妻やペットの犬と一緒に近所の山を散策している。

社外での役職

関西経済連合会の副会長

動画

<▼テレビの特集>

野村雅男

(のむら・まさお)

野村雅男

【就任期間】
2012年6月~
2017年3月末

【生まれ】
1949年8月生まれ

前社長の牧野氏がCEO兼会長となり、その下で堅実な経営手腕を発揮した。管理部門の出身。牧野氏とのコンビで、主力のLPガス事業でM&Aなどを進めた。

社長就任時の年齢

63歳

社長就任前の役職

専務

前任者の処遇

CEO兼会長

入社年次

1972年

略歴

労組委員長も経験

経理部門からスタートして人事、営業部門の統括責任者、経営企画など主要な管理部門を担当してきた。労働組合委員長の経験も併せ持つ。

1993年、総務人事部副部長、2004年産業ガス・溶材事業統括室長、2004年執行役員、2007年取締役(経営企画部担当)、2009年常務。2010年4月から専務。

就任前の評判

「迅速な決断・行動力」に定評があった。

牧野・前社長は「堅実さ」を評価

総務人事、経理部門などのスタッフ部門で活躍してきたが、「視線は現場に」がモットー。机上の空論を何よりも嫌う。産業ガス部門の事業構造改革などでも手腕を発揮した。

子会社の再編を指揮した時は、社員と膝を交えて話し合い、仕事への意欲を失わせないよう心がけた。牧野・前社長は「仕事ぶりが堅実で、安定感がある」と評価した。

出身校

同志社大学(法学部)

出身地

京都府

実績

2018年度までの中期経営計画を順調に進めた。最終年度の数値目標を2016年度に前倒しで達成。

都市ガス

都市ガスは関西電力と共同で進める近畿地域で、初年度顧客獲得目標の20万世帯に対し16万世帯を超えた。

水素ステーション

2016年1月、関西国際空港に水素ステーションを設けた。水素を使った環境先進空港の先駆けにしようという新関空会社の思いに賛同した。

モットー

「今を一生懸命に生きる」が信条。モットーは『地に足をつけていこう』。

好きな言葉は「進取の気概」「合力」。

趣味(社長就任時)

趣味は水泳。30年以上続ける。近所のスポーツクラブで週に1~2度泳ぐ。泳ぐ距離は500メートル~1キロ。ゴルフはハンディ19。


谷本光博

(たにもと・みつひろ)

谷本光博

【就任期間】
2017年4月~
2020年3月末

専務から昇格。牧野・CEO兼会長の下で2人目の社長。営業出身

社長就任時の年齢

65歳

社長就任前の役職

専務

前任者の処遇

牧野明次CEO兼会長(当時75歳)は留任。野村雅男社長(当時67歳)は相談役となり、6月の株主総会後に取締役を退任。

人事の背景

3月初旬、牧野CEOに「天命と思い(社長を)受けてほしい」と告げられた。約5年ぶりに、野村雅男前社長から社長のバトンを引き継いだ

入社年次

1974年

出身校

神戸商科大学(商経学部)

略歴

入社以来、各営業部の第一線を渡り歩く。労働組合で委員長も経験した。
2009年執行役員、2010年取締役、2011年常務、2012年から専務。

就任前の評価・評判

バブル崩壊で不良債権になった担当案件の処理に、誠心誠意対応した。人望も厚い。

性格

熱血漢。お酒の席では大いに盛り上がる。

出身地

徳島県

座右の銘

「虚心坦懐」(たんかい)。信条は「率先垂範」。

趣味(社長就任時点)

趣味はゴルフ、囲碁。休日の大半はゴルフ(ハンディ30)。ドライブをかねて実家の四国に妻と帰省する。


間島寛

(まじま・ひろし)

間島寛

【就任期間】
2020年4月~

副社長から昇格。牧野・CEO兼会長の下で3人目の社長。理系。ガス警報器とネットを組み合わせた技術の導入を期待。

社長就任時の年齢

62歳

社長就任前の役職

副社長

前任者の処遇

谷本社長(当時68歳)は健康上の理由から取締役相談役に退き、6月24日の株主総会後に取締役を退任。 関西経済連合会で副会長を務める牧野明次・会長兼CEOは続投。

入社年次

1981年

出身校

大阪大学(工学部)

略歴

情報企画部長や経営企画部長などを歴任。 2010年執行役員、2012年取締役、2012年取締役、2019年4月から副社長。

就任前の評価・評判

主力の産業ガスや情報技術(IT)分野を中心に幅広い部門を経験。中期経営計画の策定や新規事業開発などでも活躍した。

出身地

大阪府

趣味(社長就任時)

大のサッカー好き。1995年から約5年間駐在したベトナムでは、現地の日系企業の知人と日本チームを結成。首都ハノイのスタジアムで日韓対抗戦をしたほか、タイまで遠征したことも。今でも年に数回はフットサルの試合に出るが、「最近は、攻撃よりも守備に回ることが増えている」と笑う。


(参照:スナップアップ投資顧問 評判

岩谷産業(イワタニ)の歴史

日本でLPガスが初めて使われたのは、昭和4年にあの有名なツェッペリンの飛行船が燃料補給のため飛来したときだといわれている。また昭和15年ごろには一部でガソリンの代用燃料として使われたという記録も残っている。

驚異的な成長

このLPガスが家庭用エネルギーとして本格的に使われ始めたのは昭和30年代に入ってからのこと。家庭用エネルギーの仲間の中では一番の新顔にもかかわらず、その後は驚異的な成長を遂げてきた。

昭和30年当時、わずか40万世帯にすぎなかったLPガス家庭が、昭和38年には600万世帯にも膨らんだ。

山間部や海辺など全国津々浦々

都市ガスの供給地域は都市部だけだが、LPガスは山間部や海辺、離島にいたるまで全国津々浦々に広がる。快適で豊かな生活を送り届けている。

台所労働を軽減

岩谷産業がこのLPガス事業を手掛けたのは昭和28年。家庭を守る主婦をカマドのススから解放し、台所労働を軽減化。合わせて木の乱伐を防いで山々の緑を守るという掛け声でスタートした。

LPガスのパイオニアとして常に新しい発想で業界をリード。一般家庭に普及させる立役者になった。

自前のタンカーで日本まで運ぶ

事業を始めたときから「ガス資源と貯蔵基地の確保」「大量輸送方式と小売店直結主義」を掲げてきた。

産ガス国と直接契約し、自前のタンカーで日本国内の輸入基地まで運ぶ。国内を網らする供給基地を経由して、「マルヰ会」を中心とした全国店を通じて消費者に供給する。

流通手法を独自に開発

業界で一般化したLPガスの流通上の手法の多くは、岩谷産業が独自に開発したものだ。